お知り合いの社長とのお会話
私が40歳代の頃、取引のあった会社の社長さんから、こんなことを言われたことがあります。
「よたろーさんは、定年になったらどうするの?」
当時の私は、定年も年金もまだずっと先の話。
「いやあ、まだ何も考えていませんね」
そんな返事をしたと思います。
すると、その社長さんは自信満々に言いました。
「私はね、60歳になったら仕事はすっぱり辞める。日本にも住むけど、1年の半分くらいは東南アジアだね。シンガポールかタイかフィリピンあたりで豪邸に住んで、メイドさんを雇って、のんびり暮らすつもりだよ」
さらに、
「年金をもらえれば、そのくらいの暮らしができるよ」
と言うのです。
当時40歳代だった私にとって、年金などほとんど興味のない世界でした。
「へえ、年金ってそんなにすごいものなのか」
そのくらいに聞いていた記憶があります。
その後、その会社との取引がなくなり、社長さんとも会わなくなりました。
現在、その方が本当に東南アジアの豪邸で、
「今日は庭の手入れをお願いしよう」
などと言いながら優雅に暮らしているのか。
それとも日本のスーパーで、
「米、高くなったなあ」
と言っているのか。
今となっては知る由もありません。
2000年当時、国民年金は月6万7,000円ほど
2000年度の老齢基礎年金の満額は年額80万4,200円。月額にすると約6万7,000円でした。
そして2026年度は約7万600円。
つまり26年間で増えたのは、月3,500円少々。率にするとわずか5%ほどです。
26年ですよ。
赤ちゃんが生まれて、大学を卒業して、社会人として何年か働いているほどの年月です。
それなのに、約6万7,000円が約7万600円。
今回この話を書こうと思って調べてみて、東南アジアの物価以上に、私はこの数字に驚きました。
(※ただし、ここで1つ前提があります。「会社の社長だから国民年金だけ」というわけではありません。法人の代表取締役でも、役員報酬を受けて厚生年金に加入している場合があります。ですから、あの社長さんが実際に国民年金だけだったのかどうかは分かりません。今回は、「仮に国民年金を中心に考えていたとしたら」という話として進めます。)
そういえば昔、日本にも「女中さん」がいた
「メイドさん」という言葉を書いていて、秋葉原の喫茶店ではなく、突然、小学生の頃の記憶がよみがえりました。
1971年から1972年に放送されていたホームドラマ、「気になる嫁さん」です。
榊原るみさん、石立鉄男さんなどが出演していたドラマで、浦辺粂子さんが清水家の家政婦の「たまさん」を演じていました。私の記憶の中では、完全に「女中さん」です。
小学生だった私は、「東京の家には女中さんがいるんだ」と思った記憶があります。
もちろんドラマに出てくる清水家は、どこにでもある普通の庶民家庭という設定ではなく、父親が元はかなりの高給取りだった家庭だったと思います。
それでも、一般家庭の家の中に、住み込みで家事をしてくれる人がいる。そんな生活が、ホームドラマの中でごく自然に描かれていた時代でした。
今の日本で、「うちは住み込みの家政婦さんを雇っています」などと言ったら、「いったい年収いくらなんですか?」という話になります。時代は変わったものです。
ところが、タイやフィリピンなどでは、現在でも日本より家事労働者を雇うことが一般的です。そして、この人件費の違いこそが、昔「東南アジアならメイドさんを雇って暮らせる」と言われた大きな理由の1つなのでしょう。
2000年頃は「日本人はお金持ち」だった
2000年頃、日本はすでにバブル崩壊後でした。「失われた10年」などと言われ始めていた時期です。
それでも海外へ出れば、日本人の購買力はまだかなり強い時代でした。
特にタイやフィリピンでは、食事、家賃、交通費、そして人件費が日本よりかなり安い。
シンガポールは当時から東南アジアでは物価の高い国でしたが、それでも現在ほど「日本より明らかに高い国」という感覚ではありませんでした。
2000年頃の日本人から見た各国の印象をざっくりまとめると、以下のようになります。
| 国 | 2000年頃の日本人から見た印象 |
|---|---|
| シンガポール | 東南アジアでは高いが、まだ日本人に割安感があった |
| タイ | 食費・家賃・人件費がかなり安い |
| フィリピン | 特に人件費が安い |
ですから、日本である程度のお金を貯め、毎月6万7,000円ほどの年金も受け取りながら、タイやフィリピンで暮らす。これは2000年当時なら、決して突拍子もない発想ではなかったと思います。
(ただし、年金6万7,000円だけで夫婦2人、豪邸、メイドさん付き……さすがにそこまでは無理だったでしょう。おそらくあの社長さんも、退職までに作った貯蓄や資産を取り崩し、そこへ年金を加える、そういうイメージだったのではないでしょうか。)
では2026年、3か国の生活費はどのくらいなのか
ここからが本題です。
「シンガポールは高い」「タイは安い」「フィリピンならもっと安い」と言葉だけで比較しても、なかなか実感できません。
そこで、世界各国の物価データを集めているNumbeoの数字を使って、同じ条件で比べてみます。
Numbeoによる2026年現在の1人分の1か月の生活費(家賃を除く概算)は、
- シンガポール:約1,500シンガポールドル(約1,503 SGD)
- タイ・バンコク:約2万4,000バーツ(約2万3,922 THB)
- フィリピン:約3万1,000ペソ(全体で約3万1,414 PHP)
となっています。分かりやすく丸めています。
重要なのは、これは家賃を除いた1人分の生活費だということです。食費、交通費、光熱費、日用品などは含まれますが、住宅費は別。もちろん夫婦2人になったから単純に2倍になるわけではありませんが、海外生活のおおよその比較には使えます。
2026年8月現在のおおよその為替レート(1 SGD=約125円、1 THB=約4.8円、1 PHP=約2.6円)で円換算してみます。
| 地域 | 1人分の生活費(家賃除く) | 円換算の目安 |
|---|---|---|
| シンガポール | 約1,500 SGD | 約18万7,000円 |
| タイ・バンコク | 約2万4,000 THB | 約11万5,000円 |
| フィリピン | 約3万1,000 PHP | 約8万円 |
そして、同じNumbeoの2026年現在の数字では、
日本全体の平均値は約134,000円、東京は約151,000円で、すでにシンガポールより安くなっています。
こうして同じ条件で並べると、かなり分かりやすくなります。
そして私の現在の年金は、月約16万円。
この16万円を持って、夫婦2人で移住したらどうなるのか。さらにメイドさんまで雇えるのか。考えてみましょう。
シンガポール――年金生活の移住先ではなくなった
まずシンガポール。
2026年8月現在、1シンガポールドル=約125円。
先ほどのNumbeoの調査では、1人分の生活費が家賃を除いて月約1,500SGD(約18万7,000円)です。
まだ家賃を1円も払っていないのに、すでに私の月約16万円の年金を超えています。しかも私は1人ではありません。妻と2人です。
「年金を持って物価の安い東南アジアへ」という話で、2026年にシンガポールを選ぶのは完全に方向が逆です。
さらに、あの社長さんの夢には「メイドさんを雇う」という条件まで付いていました。
シンガポールでは外国人家事労働者を雇う場合、本人への給料のほかに雇用主が政府へ外国人雇用負担金(いわゆる「レビー」)を支払います。
通常のレビーを月300SGD(約3万7,500円)、仮に家事労働者への給料を月600SGD(約7万5,000円)とすれば、この2つだけで月約11万円です。さらに食事や保険なども必要です。
私の月16万円の年金から11万円を払ったら、残り5万円。まだ自分たちの家も借りていません。豪邸どころではありません。
シンガポール、ここで早くも退場です。
タイ・バンコク――昔ほど「何でも安い国」ではない
次はタイです。
2026年8月現在、1バーツ=約4.8円。
Numbeoによるバンコクの1人分の生活費は、家賃を除いて月約2万4,000バーツ(約11万5,000円)。
シンガポールの18万7,000円と比べれば、かなり安くなります。しかし、これも1人分で、しかも家賃は含まれていません。
私の年金16万円から11万5,000円を引けば、残り約4万5,000円。そこから家賃を払い、妻も一緒に生活する。これだけでも、「月16万円あればバンコクで楽勝」という話ではないことが分かります。
さらにメイドさんを雇うとします。家政婦さんの給与を仮に月1万3,000バーツとすると、日本円で約6万2,000円。これも年金16万円から払えばかなり大きな割合です。
もちろんバンコクの中心部を避けて地方都市へ行き、日本人向け高級住宅には住まず、食事は現地のものを中心にして、家事も住み込みではなく週数回だけお願いする……そうすれば、かなり費用を抑えられるでしょう。夫婦2人で普通に暮らすこと自体は、場所や生活水準によって十分可能だと思います。
でも、「豪邸+住み込みメイドさん+悠々自適」となると、月16万円ではかなり難しそうです。
フィリピン――まだ少し夢が残っている
最後はフィリピンです。
2026年8月現在、1フィリピンペソ=約2.6円。
Numbeoによるフィリピン全体の1人分の生活費は、家賃を除いて月約3万1,000ペソ(約8万円)。3か国の中では、かなり安くなります。
そしてフィリピンには「カサンバハイ」と呼ばれる家事労働者がいます。いわゆるメイドさんです。掃除、洗濯、料理、子守りなど、家庭内の仕事をする人を指します。
2026年2月から、マニラ首都圏のカサンバハイの最低賃金は月7,800ペソ(約2万円)になっています。ここだけを見ると、「おお、これならメイドさんを雇えるじゃないか」と思います。
私の年金16万円から2万円なら、まだ14万円残ります。これこそ、26年前にあの社長さんが言っていた世界に一番近いのかもしれません。
ただし、話はそれほど単純ではありません。
Numbeoの生活費約8万円は1人分で、しかも家賃は別です。マニラ市内なら、1人分の家賃を除いた生活費だけでも約3万6,600ペソ(約9万5,000円)というデータもあります。
そして海外で暮らす日本人が求める条件(治安がいい、エアコンがある、水回りがきれい、停電が少ない、病院が近い、日本食が買えるなど)を並べていくと、当然家賃も上がります。
海外移住の話でよくあるのが、「物価の安い国へ行ったのに、日本と同じ生活をしようとしたらあまり安くなかった」というパターンです。現地の人と同じ生活をすれば安いですが、日本と同じ便利さ、清潔さ、医療、安全性を求めると、それなりのお金が必要になります。
私の月16万円の年金なら、どこまで暮らせるのか
それでは、私の現在の年金(月約16万円)だけで、夫婦2人が暮らすと仮定してみます。あくまで概算ですが、私ならこう判定します。
| 国 | 夫婦2人で生活 | メイドさん付き豪邸暮らし |
|---|---|---|
| 日本 | △ | × |
| シンガポール | × | × |
| タイ | △ | △〜× |
| フィリピン | ◯〜△ | △〜× |
シンガポールはまず無理。タイは地方都市など場所を選び、生活水準を調整すれば可能性はあります。フィリピンは3か国の中では最も現実的で、場所によっては家事労働者をお願いすることも可能でしょう。
しかし、「夫婦2人で豪邸に住み、住み込みのメイドさんを雇い、年金だけで悠々自適」というのは、2026年現在ではかなり難しい話になりました。
変わったのは、日本の年金より東南アジアだった
今回調べていて、一番興味深かったのはここです。
2000年の国民年金は月約6万7,000円。2026年は約7万600円。要するに26年間で5%ほどしか増えていません。
一方、その26年間にシンガポール、タイ、フィリピンは急激に経済成長しました。賃金が上がり、物価も上がりました。
つまり昔、「日本の年金を持って東南アジアへ行けば豊かに暮らせる」と言われた背景には、日本の年金がものすごく高かったというより、日本と東南アジアの所得や物価の差がものすごく大きかったという事情があったのでしょう。
その差が26年間で縮まった。特にシンガポールは、完全に立場が逆転してしまいました。

東南アジアの人たちが豊かになった結果ですから、それ自体は悪いことではありません。ただ、日本人から見ると少々複雑です。
26年前の日本人が「老後は物価の安い東南アジアで」と夢見ていた間に、東南アジアのほうがどんどん豊かになっていった。一方、国民年金の満額は6万7,000円から7万600円。数字だけを見れば、26年間ほぼその場で足踏みしていたようにも見えます。
あの社長さんは今、どこにいるのだろう
あの会話から、もう26年ほどになります。
社長さんは、本当に60歳ですっぱり仕事を辞めたのでしょうか。
シンガポールに住んだのでしょうか。
タイに豪邸を借りたのでしょうか。
フィリピンでメイドさんを雇ったのでしょうか。
それとも日本で普通に年金生活をしているのでしょうか。
もっとも、本当に海外生活していたら
上がらない日本の年金額と成長する各国のはざまで苦しむことになったでしょうが、今となっては分かりません。
ただ、もし偶然お会いすることがあったら、ぜひ聞いてみたいものです。
「社長、昔言っていた東南アジアの豪邸生活、実現しました?」
もし、「いやあ、よたろーさん。それがさあ……」と言い始めたら。
その続きを聞くだけで、もう1本、ブログの記事が書けそうです。
※生活費はNumbeoの2026年8月時点の概算値を参考にしています。いずれも原則として1人分、家賃を除いた金額です。実際の生活費は居住地域、住宅、生活スタイルなどによって大きく変わります。また円換算は2026年8月現在の為替レートを使用しているため、相場によって変動します。


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