選挙は義務ではなく、国民に与えられた大切な権利
選挙は、国民の義務ではなく「権利」です。
もっとも、権利と言われると少し肩の力が抜けるのですが、実際に投票所へ向かう朝は、なぜか毎回、背筋が伸びます。
私の住んでいる街では、今年に入って二度目の積雪となりました。
よりによって選挙の日に雪とは、空もなかなか意地が悪い。
「なにも、こんな日にやらなくてもいいだろうに」と、ストーブの前でぼやきながら天気予報を見る自分がいます。
もっとも、投票日当日にここまでの天気になるとは、解散を宣言した総理大臣も想像していなかったでしょう。
天気予報まで読める能力があれば、党の支持率ももう少し安定しているはずです。
四十六年通い続けても慣れない投票所の空気
私が初めて選挙権を手にしたのは二十歳のとき。それから四十六年が経ちました。
仕事でどうしても抜けられなかった時や、住民票を移さないまま転勤していた独身時代を除けば、これまでほぼすべての選挙に投票してきました。
しかし不思議なことに、何度行っても投票所のあの空気には慣れません。
静まり返った会場に足を踏み入れると、なぜか妙に緊張します。
まるで試験会場のような独特の緊張感
立会人に監視されているような、
試験の答案を書いているところを横から覗かれているような、
あの独特の感覚。
カンニングなどする気もないのに、背後が気になるのですから、人間とは単純なものです。
あの緊張感は、投票が「形式的な作業」ではない証拠なのかもしれません。
雪の日に投じた一票の重みを忘れないでほしい
こんな雪の日に、傘をさして、足元に気をつけながら、わざわざ出かけてきて、さらに緊張までさせられる。
そうして投じた一票なのですから、選ばれた議員の皆さんには、その重みをぜひ想像していただきたいものです。

どうか、私利私欲よりも、国民の暮らしを優先して、しっかり働いてほしい。
これは決して大げさな注文ではなく、極めて素朴な願いです。
最高裁判所裁判官の国民審査で感じる違和感
衆議院議員選挙の際に同時に行われる、最高裁判所裁判官の国民審査。
今回は、最高裁判所裁判官になってまだ日が浅く、判例もあまり出していない方の二名。
正直なところ、「よく分からない人の名前の上に×を書く」という行為には、どうにも気持ちが追いつきません。
経験がないから×、というのも、少し酷な話です。
いっそ国会議員選挙も×印方式にしてみては?
そこで、ふと思いました。
国会議員の選挙も、「なってほしい人の名前を書く」のではなく、
「なってほしくない人の名前に×を書く」方式にしたらどうでしょうか。
「誰を選べばいいのか分からない」という若者の声をよく耳にします。
分からないから、行く気がしない。これは無理もありません。
しかし、「この人だけは勘弁してほしい」と思う人物なら、案外すぐに浮かぶものです。
選挙には二つの意味がある
選挙には、本来二つの意味があります。
- なってほしい人を選ぶこと
- なってほしくない人を排除すること
裁判官の国民審査と同じ仕組みを取り入れれば、意外と国民の本音がはっきり表に出るのではないでしょうか。
当事者が決める政治と第三者の視点
もっとも、議員定数を決めることすら、当事者である議員自身が行っている現状を見ると、
第三者委員会という、最近の企業経営では当たり前になりつつある考え方を、真正面から否定しているようにも見えます。
雪の冷たさを忘れず、国民のための政治を
せめて、当選したその日からは、私利私欲を捨て目の前の国民の暮らしを考えてほしい。
雪の中で冷えた足先の感覚を、
一票に込めた気持ちとして、思い出してほしい。
そんな当たり前の政治を、静かに期待したいものです。



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